第四話 踊る小豚亭豪遊記

 4-6 変調

 夜になっても風は吹かず、昼間の熱気をため込んだ屋根裏部屋は暑苦しかった。何度寝返りをうっても眠れず、覚醒したままの思考は考えても意味がないようなことばかり考え続ける。
 失ってしまった記憶の中には何があるのだろうとか、瞬間移動してしまう妙な体質は一体どこで手に入れたのだろうとか、この体質のことをティナが知らないのはなぜだろうとか、記憶が戻ったらそれについてもわかるのだろうかとか。
 そして報告し損ねてしまったけれど、夕方瞬間移動したとき聞こえたかすかな声のこと。誰かが干渉している、と、ジュリアンは言っていた。あの声はその『誰か』のものなのだろう。でもそれが誰なのかは相変わらずわからない。
 ジュリアンは「干渉しているしているのが誰だかわからない限り、俺にも手の打ちようがない」と言っていた。ならば声が聞こえたとしても、その主が誰だかわからなければ報告する意味は薄いのかもしれない。
 それにそもそも、ジュリアンの言うことを信用してしまって良いのだろうか。空を飛ぶことが禁じられていることや、フィラがユリンの外に居場所がないことについてはジュリアンを信用しても良いとティナも言っていたし、それを疑うつもりはもうない――ほとんどない。
 でも、この体質についてはまた話が別だ。最初の話では、彼はこの体質に興味を持ってフィラを研究対象にしたいと言ってきたのだ。とすると、このやっかいな体質をどうにか治してしまいたい自分と果たして利害が一致するのか。なんだかずいぶん雲行きが怪しいような気がする。
 ――結局、私はどうしたいんだろう?
 悶々と寝返りをうちながら、フィラは答えのない問いを繰り返す。
 信じたいのか、信じたくないのか。頼りたいのか、頼りたくないのか。
 考えても考えても、胸の奥が変なもやもやとした気分になるばかりで答が出ない。
 もう一度寝返りをうったフィラは、意を決して立ち上がった。暑ささえどうにかなれば、悶々と考え込むのをやめてちゃんと眠れるだろう。
 寝る前に閉めた窓を開け、空気を入れ換える。屋根に向かって開いた窓は開けっ放しだと雨が降ったとき困ったことになるのだけれど、今日は晴れているからきっと大丈夫だ。このまま窓を開けて眠ってしまおう。そう思いながらなんとなく外を見回したフィラは、路上に人影を見つけて首を傾げた。
 こんな時刻に外を歩き回る人なんて滅多にいない。ましてあの人影は女性のようだ。女性がたった一人で深夜に外にいるなんて。
 目を凝らしたフィラは、彼女が昨日路地裏で出会った黒衣の女性であることに気付いて思わず身を引いた。風は凪ぎ、街路樹は葉擦れの音一つ立てない。重苦しい沈黙の中、黒衣の女性は動かず、ただじっと空に浮かぶ細い月を見つめている。その横顔が一瞬、ウィンドと名乗ったあの占い師に見えた。
 似ていると思ったわけではなく、ただ直感が彼女はウィンドだと告げた。理性の「別人だ」という判断を無視して。

 夜明けの淡い光が天窓から差し込む。気持ちの良い風も吹き込んできている。寝藁の上に寝転がったまま、フィラは夢だったのかな、と考えた。窓は開けっ放しになっているけれど、窓を開けた後寝床に戻るまでの記憶が曖昧だ。
「うー?」
「何うなってんの?」
 枕元に丸く置いた寝藁の上から、ティナが不思議そうな声を上げる。
「夜中、私、窓開けたでしょ?」
「うん」
「その時ね、外に誰かいたような気がしたんだけど」
 起きあがってティナを見下ろすと、ティナは小首を傾げて答えた。
「この辺の人、あんまり夜中は外に出歩かないみたいだけどね。昨日も野良猫の気配くらいしか感じなかったけどな」
「そっか」
 頷きながら、フィラは寝間着を脱ぎ始める。
「まあ、夢かもしれないから」
 ティナに、というよりは自分に言い聞かせるように呟いて、フィラは身支度を続けた。

 予定していたよりも早起きだったフィラは、叙任式を見に行くためにソニアやレックスと待ち合わせた場所にも早めに着いてしまった。町の中心に立つ時計塔の下で、フィラはティナを肩に乗せてぼんやりと立ち尽くす。
 そういえば、この広場であの占い師と出会ったのだった。ウィンドと名乗った年齢不詳の占い師。なぜかいつもあの黒衣の女性と見間違ってしまう。ウィンド自身の顔立ちだってよく覚えていないのに。ウィンドも黒衣の女性も覚えにくい顔立ちなのだ。綺麗な顔立ちだけれど、際だった特徴はどちらにもない。年齢がいくつなのかも見当がつかない。見るたびに年が違って見える、印象の定まらない人たちだった。
「ね、ティナ」
「ん?」
 話しかけると、右肩のティナはゆったりとしっぽを揺らす。
「ウィンドさんのこと、覚えてる?」
 風になびいた髪がティナの顔に当たらないように押さえながら、フィラは尋ねた。
「覚えてるよ」
 ティナはフィラの肩にうずくまり、まだしっぽを揺らしながら答える。
「知りたいことがあるときは、私を訪ねてきてくださいって言ってたよね?」
 ゆらゆら揺れるティナのしっぽをつつきながら、フィラは確認した。
「言ってたね」
「訪ねてきてって、一体どこに?」
「さあ?」
 ティナが首を傾げる。と同時に、背後から声がした。
「こんにちは、フィラ」
 フィラはぎょっとして動きを止め、一瞬間をおいてから恐る恐る背後を振り向く。
「知りたいことがあるのですか?」
 にこやかに声をかけてきたのは、噂の主の占い師だった。
「……ウィンドさん」
 タイミングが良すぎる。もしかして話を聞かれていたのだろうか。
「あ、あの、えっと」
 動揺しながら、フィラは真っ白になってしまった思考をどうにか立て直そうと努めた。
「知りたいこと……私が? ですか?」
「そう。あなたが知りたいと求めたから、私もあなたに会いたいと願った。あなたには今、知りたいことがあるはずです」
 穏やかな慈愛に満ちた微笑みを向けながら、ウィンドは断定する。
「私……私が知りたいことは……」
「どんな悩みでも構いません。私がそれを知らないのではないかと悩む必要もありません。どうぞ何なりと聞いてください」
 知りたいことはたくさんある。それこそ山のように。けれど、そのうちのどれを尋ねればいいのかはさっぱりわからない。困惑するフィラの肩を、ティナのしっぽが軽く叩いた。
「聞いちゃっていいと思うな。悩んでるんだったらさ。たぶん、答えられそうにないことほど答えてくれると思うよ」
 ティナの言っていることもよくわからない。あの女の人のことを聞こうかとも思ったが、うまく考えがまとまらない。
 ――先に別のことを聞いてしまおうか?
 本当に、占い師に相談するような気持ちで。当たるも八卦当たらぬも八卦みたいな覚悟を持って。
 フィラは悩んだ末に、ゆっくりと口を開いた。
「ウィンドさんは、団長のこと知ってますか? あ、あの、聖騎士団の団長で、今この町の領主をやっている……」
「ジュリアン・レイのことですね? よく知っています。私の願いを叶えるためには、彼の力が必要ですから」
 穏やかに微笑みながら、ウィンドは神託を与える巫女のような厳かな調子で答える。
「必要? あの、ウィンドさんは、団長のことどう思ってるんですか?」
 本当は何を聞き出したいのかはっきりしないまま、フィラは質問を続けた。
「私はジュリアン・レイと同じ願いを持っている。ジュリアン・レイは私を利用する。けれどそれ以上に、私たちも彼を利用する……」
 急に、迷うように言葉が止まった。不思議に思って見上げたウィンドの表情が、頼りなげな少女のように見える。
「ごめんなさい。上手く……言葉に出来ません」
 困惑した表情のウィンドに、フィラはまた迷いながら、自分の中にある疑問の明確な形を探った。
「それじゃ、質問を変えます。ええと……団長のこと、ウィンドさんは信用しているんですか?」
「信用というのは難しい言葉ですね」
 ウィンドは自信を取り戻した様子で微笑む。
「信用していると言うよりは……信頼しているのです」
 一度言葉を切り、瞳を閉じたウィンドに、フィラはやはり神託を与える巫女に似た威厳とうさんくささを感じた。
「彼は私たちの願いを叶えてくれるでしょう。そこに至る道が、彼にとってどんな意味を持つものだったとしても。だから私は、彼がその目的を果たせるように、出来る限りのことをしたいと思っているのです」
「それってつまり……私と話していることもその『出来る限りのこと』の中に入っているってことですか?」
 ウィンドは目を開け、水晶のように透明な薄青い瞳でフィラを見る。
「その通りです、フィラ。あなたも私たちと同じ願いを持っていた。もしもあなたが願うなら、私たちは支え合いながら、同じ道を歩むこともできるのです。だから」
「私に……ウィンドさんや団長にとっての利用価値ってあるんでしょうか」
「あなたがそれを願うなら」
 即座に返された答えは、自信たっぷりな割にはどうとでも解釈できそうな微妙なものだった。
「願うだけで叶うなんて、随分都合の良い考え方なんじゃない? 僕はあんまり信じられそうにないな」
 じっと話を聞いていたティナが、フィラの肩に立ち上がって不満そうな声を上げる。
「願うだけで叶うことは少ない。願いが叶うのはとても幸運なこと。そして時折とても不幸なこと。そのために犠牲にするものがあるのならなおのこと。あなたの願いがどちらであるのか、それは私にもわからない」
 一歩後ろに下がるウィンドに、フィラは立ち去ろうとする気配を感じて慌てた。聞きたいことはまだ残っているのに。
「あ、あの、それから!」
「何ですか?」
 急き込むフィラに、ウィンドは優しく首を傾げて見せた。
「昨日の夜、酒場の近くにいましたか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えます」
 明確なイエス・オア・ノーで答えが返ってくるものと思っていたフィラは、どういう意味だろうと眉をひそめる。
「私の名は『風』。それは遍在するもの。そうでしょう?」
 わけがわからない。
 フィラの混乱を見て取って、ウィンドは慈しむような微笑を浮かべた。微笑が浮かぶと同時に、ウィンドの顔から少女の面影が消える。成熟した女性というよりも不老の肉体を得て何千年も生きた老女のように感じられて、フィラは目を瞬かせた。
「昨日の夜、今あなたと会っている私は眠っていました。これで答えになっていますか?」
「は、はあ……たぶん……」
 困惑するフィラに笑いかけ、ウィンドは踵を返した。歩き出しながら、彼女はゆったりと舞うように腕を上げる。
「さようなら、フィラ。また会いましょう」
「待ってください、どうやって?」
 空に手をさしのべるウィンドの背中に向かってフィラは問いかけた。真っ白な鳩が時計塔の上空から降りてきて、ウィンドの手に止まる。
「あなたが願い、私が願う。二つの願いが交差するその時に」
 鳩と共に降りてきた風に長い銀髪を揺らしながら、ウィンドは静かに言った。
「フィラ! お待たせ!」
 何かの儀式のような動きに見とれていたフィラは、背後から別の声に呼ばれて反射的に振り向く。こちらに向かって手を振っているのはソニアで、その隣を歩いてくるのはレックスだ。二人に手を振り返しながら、フィラはちらりと振り向いて、ウィンドの姿がもうどこにもないことを確認する。
「ごめんねー、待った?」
 のんびりとした歩調のレックスを置いて駆け寄ってきたソニアが、フィラの前で立ち止まって上目遣いに小首を傾げた。
「大丈夫。ちょっと早起きしちゃったから、散歩がてらに早めに来てただけだよ」
 笑って二人を迎えながら、フィラはウィンドに言われたことについて考えていた。
 ウィンドと話していて、少しだけ自分の気持ちが整理できた。
 ジュリアンを信用したくないわけじゃない。でも、頼りたくない。妙な意地を張っているとは自分でも思うけれど、それが今の正直な気持ちだった。