お話のはじまり

 File-1

 一目惚れを信じるかい? なんて聞いたら、君は何て答えるのだろう?
 幼馴染みのカナリヤは「ま、あんたらしいけど」と軽く笑い飛ばした。
 悪友のコマドリは「俺はお前ならやってくれると信じてるぜ」と明らかに冗談とわかる真顔で言い切った。

 僕は幽霊に恋をした。
 故郷の島から引き離されたあの日。軍用貨物列車の荷台から。
 幽霊は線路を見下ろす丘の上に立ち尽くし、下着みたいな白い薄手のワンピースを風にはためかせながら、走り去っていく列車をじっと見つめていた。
 その列車を最後に、線路も沿線の町々も島ごと放棄される予定だった。人っ子一人残されてはいないはずだった。
 でも、彼女は確かにそこにいた。
 そこから、僕を見ていた。

 ――――――

 瞳を開いて、二度、三度と瞬いた。単調な列車の音と太陽の白い光が、薄汚れたコンパートメントの中を満たしている。窓の外には、数ヶ月前に同じ車窓から見たときよりもずっと間近に迫った海岸線。海の中にそそり立つ高層住宅には、取り込まれる予定もない洗濯物がいまだにはためいている。
 あと一時間も走れば、線路は廃墟化した都市を抜けて平野部へ出るだろう。目的地はそのさらに先だ。海沿いの町がほとんど海中に没してしまった昨今では存在自体が珍しい、「歴史のある」港町。
 アウルは一つあくびをして、窓枠に肘を置いた。目的地までの距離を思って舌打ちする。あまりにも早く目が覚めてしまった。
(あの時の夢を見るなんて……)
 淡々と移り変わっていく景色は故郷の島とは似ても似つかない。変わらないのは列車の音だ。
(この、音のせいか……)
 だから飛んでいくって言ったのに、と、無口で頑固な上官の顔を思い出してアウルはむっとする。
『許可は出せん』
 少佐に昇進したばかりの上官はにべもなくそう答えた。
『カタリナは置いていってもらう。向こうの基地では整備に対応できんからな』
「列車は嫌いなんだよ」
 記憶の中の上司に向かって、アウルは小さく毒づく。
 生まれて初めて列車に乗ったのは、故郷の島を集団で脱出させられたあの日だった。家畜のように仕切りも椅子もない貨物車にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、家財道具も思い出の品々も何もかもを捨てて大陸へ連れてこられた。
 もう一度忌々しげに舌打ちして、アウルは足下に置いていたラジオのスイッチを乱暴に蹴った。カタリナの操縦席に無理矢理突っ込まれていた年代物のラジオだ。今度は無理矢理引っこ抜かれて旅のお供をさせられている上、乱暴な扱いはいつもと変わらない。ラジオはぶつりと抗議の声を上げてから、渋々と短波放送を拾い上げた。
『……たしがちいさなとりならいいのに』
 ノイズ混じりの小さな歌声に、思わずため息が漏れる。
「ったく。厄日だな」
『そしたらあなたのもとへと飛んでいける』
 ささやくような歌声は、故郷の島で聞き慣れた幼馴染みのものだ。
(どいつもこいつも、あの島のことを思い出させようとしてやがる)
 観念してもう一度目を閉じれば、雨音のようなノイズが列車の走行音と溶け合って消える。
『わたしがちいさなとりならいいのに』
 微笑みをたたえたような女性の歌声がさらさらと聴覚を滑っていく。どこか遠くの空へ誘うような、吐息混じりの透明な歌声。
「……カナリヤ……」
 眠りに落ちる一瞬前に、歌声の主に呼びかけた。
(お前……今、どこにいるんだ……?)

 礼儀正しく帽子を取って挨拶してきた駅員に片手をあげて、赤煉瓦の駅を出る。駅前の広場を、幼い少年たちが甲高い声で呼び交わしながら走り回っている。赤ん坊を抱えた女性が微笑みながらそれを見守っている。広場を取り囲むのはどっしりとした古い石の家々だ。行き交う人の数は決して多くはないが、その表情は総じて穏やかで、陰鬱で沈鬱な空気を覚悟して来たアウルは拍子抜けしてしまう。
「よおアウル」
 呆然とバックパックを背負い直したアウルに、親しげな声が投げかけられた。
「よおロビン、お前まだくたばってなかったのか」
 広場の隅に駐車した派手なピンクのキャデラックを、アウルは半ばうんざりと見遣る。閑静で品の良い街並みから見事に浮き上がったその車の運転席にふんぞり返っているのは、ピンクのオープンカーに負けないほど派手なピンクのスーツに身を包んだ男だ。呆れたことにグリーンのワイシャツに紫と黄色のストライプのネクタイを締め、とどめとばかりに羽の形を模したらしい真っ赤な縁のサングラスをかけている。髪はない。どういう信仰だか知ったことではないが、毎日髭といっしょに綺麗にそり上げているとしか思えない綺麗なスキンヘッドだ。そんな輝かしい頭と服装のせいで、その男は変なマフィアかコメディアンにしか見えなかった。
「んだとてめ、せっかく迎えに来てやった俺様になんつー暴言吐きやがる」
 しかしその変なコメディアンは不本意なことにアウルの幼馴染みで、これから勤務する基地の先輩でもある。
「前線勤務ってな随分稼ぎが良いみたいだな」
 後部席にバックパックを放り出し、ドアも開けずに助手席に飛び乗ってから、アウルは昔の親友に右手を差し出した。センスは最悪だが、幼馴染みが身に着けているものも乗っている車も、明らかに一般の事務職員が手を出せる値段ではないものだ。
「おう。危険手当がハンパねーからな。お前も次の給料日期待しとけ。それまで生きてられたら、だけどよ」
 ロビンはがっしりと右手を握りかえしてにやりと笑う。
「んじゃ出発だ。我らが本拠地、僧院へ!」
「……僧院?」
 エンジンがかかると同時に、ほとんど爆音に近いラジオの音が閑静な街の静寂を引き裂く。
「つけばわかるぜひゃっほぉーう!」
 ロビンはアクセルを全力で踏み込みながら無駄に楽しげな声を上げた。まどろみから突然叩き起こされたタイヤが抗議の悲鳴を上げ、急な加速度にアウルの体はシートに押しつけられる。
「てめえ、離陸でもする気か!?」
「おうよ! 相棒とだったら空も飛べそうな気がするぜ!」
 ぐるぐるとハンドルを回しながらロビンは上機嫌で叫ぶ。
「……大概にしとけよ」
 予想以上に乱暴な運転に辟易して、アウルは深いため息を漏らした。

 ピンクのキャデラックは何の遠慮もなく陽気なラジオの騒音をまき散らしながら街を駆け抜け、海岸線を辿る国道に入ればさらに気炎を上げる。
「俺の相棒はどうだアウル!」
 ラジオの騒音も吹き付ける風もかき消すような勢いでロビンが怒鳴る。
「うるせえよ、お前もお前の相棒も」
 アウルはぼそりと呟いて、右側の視界を埋め尽くす海と空を眺めた。定規で引いたような直線を描く水平線上に浮かび上がった積雲が、くっきりとした輪郭を空に描いている。空は吸い込まれそうなほどに深い深い青。その青の中にうっすらと白い筋が流れているのに気付いて、アウルは目を細めた。注意してみなければわからないほどの薄く細い帯が、海の向こうから陸地に向かって流れてきている。
「なんだあれ。煙……じゃねえよな?」
 見慣れない現象の正体を見極めようとさらに目を凝らせば、白い帯を形作る粒子の不規則な動きが見えてくる。
「……蝶、か?」
「おいおい見えんのかよ。相変わらずデタラメな視力してやがんな」
 運転の合間にラジオのボリュームが絞られて、少しテンションを落としたロビンの呆れ声が耳に届いた。重低音の効いたラジオが消えると、エンジン音は意外なほど静かなことに気付かされる。
「別に見えちゃいねえよ。飛び方と粒子の粗さでなんとなく、だ」
「いやそれ見えてる内に入るだろ。人間業じゃねえよ。お前ビックリ人間大会に出られんじゃねえの」
「いいだろ別に。それよりどうなんだよ。あれは一体何なんだ?」
「だから蝶だろ。海を渡る蝶。この町の名物の一つだ」
 元より見えるはずがないと諦めているのか、視線すらそちらに向けることなくロビンは答える。
「海を渡るって、海の向こうに陸地があるとでも言うのか? 何もかも海に沈んじまったんじゃねえのかよ?」
「さあな。確かめたわけじゃねえが、毎年春になると海の向こうから飛んできて、秋には海の向こうに飛んでいくって話だ。地元じゃあったけー南風を運んでくるありがたい縁起物ってことになってるらしいが」
「縁起物、ね……」
 南の空から霞のように漂ってくる蝶の群れを見つめる。暖かい南風にありがたみを感じる心境というものが、アウルには理解できない。
『どうせ何もかも神人が持って行っちまうんだ』
 言い捨てて出撃した同僚のエイクは二度と戻らなかった。母なる海が勢力を増せば増すほど、陸地と人々の心は渇ききって荒んでいく。
「それよりお前、最前線《海辺》に飛ばされた気持ちはどうだ? ちったぁ信心深い気持ちにもなろうってもんじゃねえのかよ?」
 沈みかけた思考を、ロビンのがなり声が引き上げた。
「んなわけあるかよ馬鹿言うな」
 空と雲と海と蝶の、青と白だけで構成された世界に目を背け、原色一辺倒のロビンの横顔に視線を移す。
「ふん。くたばる予定はねえってか。自信たっぷりだな。てめーの噂は聞いてるぜ。エースだって持ち上げられてるらしいが、うちのエースにはかないっこねえから覚悟しとけ」
「うちのエース?」
 派手な赤縁のサングラスの奥で、ロビンの空色の瞳が笑った。
「ああ、幽霊機《ゴースト》を五十機は海に叩き返してるって噂だった」
「……五十機? 五機じゃなくて?」
 車が積雲の落とした影に入ってロビンの瞳の色が灰色に沈む。
「大したエースだろ?」
「ああ、そうだな。冗談にしか聞こえないくらいだな。そもそもその情報が本当ならとっくに本部にスカウトされているはずだが」
 ものすごい勢いで雲の影を突っ切った車は、再び明るい日差しの元へと躍り出る。
「ははっ、まあ、いろいろあるんだよ。それに今はそのエース様も海の底だしな……っと、もうすぐだぜ。ほら、あの森んなってるとこだ」
 徐々にスピードを落としながら、ロビンはそう言った。