第三章 pool

 3-1

「基本的には、あなたは自由よ。見張り付きなら市街にも出れるわ」
 リノリウムの廊下を先に歩く桔梗が言う。ライファは桔梗から見えないことを承知で小さく頷いた。インティリアの市街に出ても疲れるばかりであまり嬉しくはないのだが、着替えや日用品は買っておきたかった。エヴァーグリーンの支給品はあまり使いたくない。
「今日はもう遅いから部屋にいてもらうことになるけど、明日には買い物に行けるから。必要なものを買い揃えてきてくださいね。あなたのお部屋はここよ」
 話しながら立ち止まった桔梗は、廊下の左手のドアを示した。
「ゆっくり休んでくださいね」
 IDカードでセンサーに触れ、ドアを開ける。
「シャワーとトイレは自由に使ってください。イディアー能力はこの中では使えないようになっているから。鍵は私が持っているけど、明日の朝には開けに来ます。それじゃあ、おやすみなさい」
 桔梗に背中を押されるようにして部屋に入ると、背後でドアが音もなく閉まった。

 部屋の窓からは水の星が見える。強化ガラスを通して見る水の星は、うす青く輝いてとても綺麗だ。
 ライファがエヴァーグリーンに所属していた頃、エヴァーグリーンはあの星への移住計画を進めていた。
 人類が地球を捨ててから数百年がたつと言われている。月の代わりに水だけでできた衛星「フォンターナ」を持つこの星で、人類は地球に帰れる日を待っているのだとエヴァーグリーンは説く。
 この星にはない海というものが地球にはある。海は全ての土地に平等に雨を降らせる。この星のように、水の星が天頂に来たときにだけ降るのではなく。その星では人類は飢えることはなく、また貧富の差もない。その星に帰れるようになるまで、人々は助け合って生きていかなければならない。少ない水や食料を分け合って。
 エヴァーグリーンが、少なくとも三百年は教え続けてきた歴史だ。
 インティリアの多くの人間がその言葉を事実として捉えている。普通より強力なイディアー能力を持ったものだけが集められたインティリア。そこの住人の人心さえ把握しておけば、エヴァーグリーンはその勢力を保つことができる。エクスティリアの人間は強大な軍事力を背景とするエヴァーグリーンに逆らうことはできず、物資は平等に分け合わなければならないと言う彼らの言葉に従って作物を納めている。
 平等だなんて嘘だ。インティリアンは少ない地下水資源をパイプを張り巡らせて集め、エクスティリアンが納めた食料を消費している。
 エクスティリアのほとんどの人間はエヴァーグリーンに少ない作物を納め、代わりに配給を受けている。必要最低限のものしか与えられないが、それがなければほとんどのエクスティリアンは生きていけない。頼りながらもうらやみ、恨んで。
 それでも、いつか地球から迎えが来て『帰れる』のだと信じている。

 バカなんじゃないかとライファは思う。地球なんて理想郷がどこにあるというのだろう。ここで。この星で、生きていくしかないのに。
 エヴァーグリーンの幹部達も恐らく信じてはいないだろう。地球からの迎えが来ないとわかっているから水の星への移住計画を進めているのだ。

 水の星を見上げたまま、ライファは五年前のことを思い出す。水の星への移住計画は、ライファの能力を増幅して水の星へ直接移動できる『ゲート』を作ることから始まった。『ゲート』が安定したことで水の星へ大量の物資を運ぶことができるようになり、エヴァーグリーンは第一回フォンターナ移住計画を実行に移した。
 結果は最悪だった。最初の移住者達は、何か事故が起こったときにも問題なく対処できるよう、エヴァーグリーンの中でも精鋭が選ばれていた。にもかかわらず、第一回目の移住者達は全滅したのだ。それも、たったの一夜で。
 ――だから、やめろって言ったのに――
 ライファは深くため息をついてブラインドを下ろした。
 フォンターナは人間を受け入れたりしない。そういうふうに、できているのだから。 

 迅斗は私服に着替えて、私室のカーテンを開いた。同時に来客を告げるベルが鳴る。
「……司令」
 モニターを見上げた迅斗は、思わず声を漏らした。
 ドアの前でカメラを見上げているのは、わずか十四歳の少女だ。視力のない左目にはまぶたがなく、眼帯もしていないので濁った眼球が見えている。その左目を含む顔の三分の一は建築資材の直撃を受けて縫合手術を受けたと、迅斗は聞いたことがあった。よほど緊急事態だったらしく、荒療治のあとが縫い目となって残っている。
 エヴァーグリーン司令官という役職にあり、最年少の隊員でもある彼女――ティア・カフティア――とは、まだ言葉を交わしたことはなかった。幹部に次ぐ地位にある彼女が直接部屋へやってくる、というのは、どういう事態なのか。
「……何か」
 緊張気味にドアを開く。ティアのイディアー能力はテレパシー(精神伝達)。下手なことを考えていると思考を覗かれるぞ、と、先輩の隊員に脅されたことがある。
 ――ライファを捕らえたと聞いたが、本当か?――
 声は直接頭の中で響いた。
「はい」
 ティアは目を細める。表情の動きがあまりにもわずかで、不機嫌さを表したものなのか笑顔なのか判然としない。
 ――ライファ捕獲を命じたのは誰だ?――
「フェルゼン様です」
 ――あの男の考えそうなことだな――
 ティアは薄く笑って頷く。
「何か、問題が」
 ――お前、兄には会ったのか?――
 言葉だけでなく、思考も遮るような強圧的な調子だった。
「兄……?」
 ――悠斗だ。覚えていないのか……――
 ティアはため息と共に目を伏せた。まぶたのない左目だけが、無表情に迅斗を見上げる。
「いえ、覚えています。しかし兄は……」
 ――三年前、お前の兄は確かに戸籍から自らの存在を抹消した。だから聞いているのだ。お前の兄に会ったのかとな――
「………………」
 迅斗は咄嗟に答えに詰まる。頭の中で、さっきのライファの言葉がよみがえった。インティリアの人は死んだと言うかもしれないが、エクスティリアの基準では生きている。確かに、インティリアでは戸籍から抹消された人間のことも、死んだ、と表現することがある。
 黙っていると、ティアがこれ見よがしに大きくため息をついた。迅斗ははっとして思考をティアに引き戻す。
 ――ご苦労だったな、七海迅斗。私がここへ来たことは他言無用に願おう。では、失礼する――
 ティアは迅斗を威圧するようにじろりと見て、すぐに踵を返した。
 釈然としない感情を抱えたまま、迅斗はドアを閉じる。神出鬼没で幹部達すらその行動を把握し切れていないというティアの目的は、結局さっぱりわからなかった。
 三年前に死んだはずの兄。いなくなる前もエヴァーグリーンの機密を握る技術者であった兄とはあまり会う機会はなかった。最後に会ったときは、確か似合わない伊達眼鏡に白衣を着ていた。不ぞろいに伸びた髪と無精ひげがだらしなくて、ああはなりたくないと思ったような気がする。機密に触れる立場だったとは言え、ティアほどの高い地位にいる者が戸籍から抹消された後も気にかけるほどの存在ではなかったはずだ。
 ――何か、あるのか……?――
 迅斗は支度を整えてからベッドにもぐりこみ、思考をめぐらせた。しかし思い当たることはない。あきらめて目を閉じた途端、ドアの左の壁にかかっている内線電話が鳴り出す。
「……はい」
 液晶に表示された番号に見覚えはなかった。首をかしげながらも一応受話器を取る。
「もしもし? 夜分遅くすみません。三二九号室のひと、ですよね?」
 どこか聞き覚えのある声とノイズ。盗聴されている。
「ああ、そうだが。……誰だ?」
 迅斗は警戒を強めた。
「……もしかして、迅斗?」
「だから、お前は誰だと聞いている」
 いきなり名前を出されて、思わず声を荒らげた。
「私、ライファ。あのさ、そこの部屋のクローゼットの奥の方にね、隠し戸棚があるんだけど。そこに入ってるへそくり持ってきて欲しいんだ」
「……は?」
 何故ここでへそくりなどと言う単語が出てくるのか。迅斗の理解を超えている。
「だから、へそくり。明日買い物に行くから持ってきて欲しいんだって」
「……なんだ、それは」
「……あ。もしかして、へそくりの意味を知らない?」
 考え込んだような間のあとで、ライファはのんきにそんなことを言った。盗聴されていることに気付いていないのだろうか。
「そんなわけあるか。わざわざ内線をかけてまで言うような用事かと聞いている。大体なんでそんなものがここにあるとわかるんだ」
「お金ないって死活問題じゃない。今さらエヴァーグリーンにたかるのもなんか嫌だし。あ、そこ、三年前まで私の部屋だったんだよね。出てく時ばたばたしてたから持ち出せなかったんだけど、それはちゃんと私のお金だよ」
 迅斗は大きくため息をついた。
「で、どこにあるって?」
「クローゼットの奥。右の方」
 コードレスの受話器を持ったまま木製のクローゼットを大きく開く。
「奥から二つ目のネジの頭、ちょっと押してみて」
 言われるままにネジを押すと、軽い手ごたえと共にすぐそばの壁板が外れた。
「中に小さい箱があるでしょ? その中に入ってるから。朝にでも持って来てくれると嬉しい」
「朝? 今じゃなくていいのか?」
「え、検査とかしなくて良いの?」
 言われて初めて気付く。
「……それもそうだな。ああ、じゃあ、また、朝に」
「どうもありがと。ごめんね、こんな遅い時間に。じゃあ、お休み」
 ライファは苦笑混じりに言って電話を切った。迅斗も内線を切り、クローゼットの隠し戸棚に入っていた小箱をデスクの上に置く。受話器を戻してベッドに入った。
 朝になってライファに会ったら、兄のことを聞いてみようと。夢うつつに、そう思った。