第三章 pool

 3-2

 インティリアに直接侵入するのは、ちゃんとした戸籍を持たない人間には難しいことだ。だから以前お世話になった逃がし屋に、今度は侵入を手伝ってもらうつもりだとアレスは話した。
 インティリアの地下には都市部に仕事を求めてやってきたエクスティリアンの溜まり場がある。もともと昔の下水道だったのを、勝手に拡張して町にしてしまったのだ。治安は悪く、インティリアとの境界には警備兵が置かれているが、反面エクスティリアから入るのはたやすい。アレスが車を止めたのはその『地下』の一角。裏通りに面した酒場だった。

「おやドクター、久しぶりだね。ちゃんと食ってたかい?」
 店の裏手にポンコツ君を止めて店内に入ると、アレスの姿を認めた女将が明るく声をかけてくる。明け方近いせいもあって、店内には酔っ払って寝こけている男が二人いるきりだ。
「もちろんです、マダム」
 アレスは礼儀正しく笑いかけて酒場の隅のテーブルに陣取った。タスクもそれにならってアレスの向かいに座り、じっくりと店内を見回した。
 煙草の煙ですすけた天井。はがれかけて黄ばんだ壁紙。ひび割れた木製の椅子とところどころにしみのあるリノリウムの床。カウンターの向こうに並んだ安酒の瓶。いかにも安っぽい造りだが、雰囲気は悪くない。
「注文は?」
 女将に指示されて注文を取りに来た少女が気安い調子で尋ねかけてくる。アレスはここでは常連客のようだった。つくづく得体の知れない男だと思いながら、タスクはメニューを一瞥する。
「そろそろ朝飯の時間だよな」
 メニューには見本の写真が載っていなかったので、タスクはあきらめて視線を上げた。アレスは真剣な表情でメニューを睨んでいる。
「あ、タスク、ここのホットドッグは結構美味いぞ」
 タスクの視線に気付いて、アレスは機嫌良さそうに言った。
「ああ、じゃあ、俺はそれで」
「俺はジャムトースト。あと久しぶりだし、おっさんとも話ししたいんだけど」
「はいはい。じゃあちょっと待ってな。この時間帯ならまだ起きてるはずだから呼んで来るよ」
 ウェイトレスはアレスににやりと笑いかけて厨房へ入っていった。
「……まだ、起きてる?」
 それを見送りながら、タスクは引っかかった言葉を繰りかえす。
「ああ、おっさん昼夜逆転してっからな」
「昼夜逆転、て言うとやっぱりその『おっさん』が」
「そそ。インティリア出るときお世話になった人だよ」

「しかしドクター、なんだってまた戻ってきたんだい? 再就職しようったってインティリアもだいぶ不景気だよ」
 アレスの前に分厚いトーストを置きながらウェイトレスは言った。
「問題は就職じゃないんだなあ」
「ふうん? あれ? そういや前連れてた女の子はどうしたよ? 振られたんならあたしが慰めてあげようか」
 厨房に次の皿を取りに行きながらもウェイトレスは口を止めない。
「まだ振られてないよ。彼女がエヴァーグリーンに捕まったんで助けに来たんだ」
「エヴァーグリーン相手に勝算なんてあるの?」
 今度は山盛りのホットドッグをタスクの前に置きながら首をかしげる。
「今回は強力な助っ人がいるから」
「強力?」
「そう。俺が会った中でも五本の指に入るくらいの強力なイディアー能力者」
 その言葉に、コップに水を注いでいたウェイトレスは眉根を寄せた。
「そんな強力なイディアー能力者がなんでドクターみたいな貧乏臭そうなのと一緒にいるのさ。エヴァーグリーンにでも入れば出世できるんじゃないのかい?」
「エヴァーグリーンなんて性に合わねんだよ。任務のときじゃなきゃ外に出られないそうじゃねえか」
 それまで黙って話を聞いていたタスクは机に肘をついて答えた。ちょうど最初の一本を食べ終わったところだったのだ。

 その後二階から降りてきた『おっさん』と簡単に打ち合わせを終え、とりあえず上がってけと言われた部屋に腰を落ち着けたところで、アレスが急に立ち上がって頭を抱えた。
「しまった!」
「どうした、アレス?」
 アレスの唐突さはいつものことなので、タスクはベッドに寝転がったまま訊ねかける。
「高橋先生に猫の世話頼んで来なかっただろ? 同棲し始めて日が浅いもんだからうっかりしてたんだよなあ。大丈夫かな、あいつ」
 アレスは頭を抱えたままそわそわと部屋を一周した。
「なんかたくましそうだったからな。大丈夫だろ」
 アレスはため息をついて軽くうなだれる。
「だといいけど。ああ、悪いことした」
「……なあ」
 ため息をついてもう一台のベッドに腰掛けたアレスに、タスクは首だけ振り向けて声をかけた。アレスが問いかけるように視線を向けてきたのを確認してからタスクは言葉を続ける。
「何でエヴァーグリーンはライファ捕まえようとしてたんだ? 今まであんま気にしてなかったんだけどよ」
「何で気にならないのか俺は気にしてたけど。あいつらがライファつかまえたがってた理由な……」
 アレスは考えをまとめようとしているのか、語尾を濁して空中に視線をさまよわせた。
「複雑というにはちょっと単純な理由なんだ」
「ふーん。お前の精神構造と同じだな」
「それ、褒めてるのか? けなしてるのか?」
「どっちでもねえよ。単なる事実だ。で?」
 タスクはアレスの視線を捕まえて続きを促す。
「フォンターナにつながる門を開くことができるのは、ライファだけなんだ。ロケットとかで行っても着地するとこないからな」
「着水はできるんじゃねえのか?」
「まーな。でも帰りにどうするかって問題もあるし、それに着水もなかなか危険なんだ。一つ問題があって。それも結構大問題だ。フォンターナが人間を受け入れない、っつう」
「どういうことだよ、受け入れないって」
 片肘をついて起き上がると、アレスは講義口調で説明を始めた。
「主な現象としては人間が行くと水面が荒れたりとかだな。でもライファが開けた門を通って行ったら結構穏やかだったんで、何度か調査隊が行ったり来たりしたあと、移住計画が実行に移された。ところがだ」
 今度は講談口調で身を乗り出す。
「大規模な移住が行われた日の夜、フォンターナがまた荒れ狂っちまった。移住コロニーには本格的な防水装置がついてたんだが、一体どんな荒れ方したらああなるんだかわからないほど荒れ狂ってみんなばらばらになっちまって、移住者達もみんなフォンターナの藻屑となってしまった。ま、どんなに頑丈にしてもあんなに荒れるんじゃ揺れっぱなしで気分悪くて住み着くなんて夢のまた夢だろうけど」
「フォンターナの水をこっちに持ってくるってのは?」
「それもなあ。フォンターナの水はライファのゲート通ろうとしないし、ロケットじゃ重量制限きつすぎて無理だろうし」
 腕を組んで難しそうな顔をしたあと、アレスはタスクにならってベッドに横になった。
「ま、そんなわけで、見えるところにあんな豊富な水資源があるっつうのに手も出せない。エヴァーグリーンにとっちゃ腹の立つ話さ。エヴァーグリーンの奴ら、またなんか作戦でも考えたんだろうけど。ほんとは俺達に任せといてくれた方がずっと効率いいのになあ……」
「それと月が関係あるのか?」
 足元の毛布を引き寄せながら尋ねると、アレスは既に意識を飛ばしかけていた。
「ああ……ライファが自分の能力を全部ちゃんと使うためには……月がないと……いけないんだ……」
「なあ、ライファの能力って……」
 言いかけて、アレスが既に寝息を立てていることに気付いてため息をつく。
「……寝るの速すぎだろ……」
 タスクは半眼で呟いてからアレスの上に毛布を投げかけてやった。

 午後三時二十四分。インティリア一の繁華街からエヴァーグリーン本部へと通じる電車の中。七海迅斗はげっそりと疲れて向かいの窓から見える町並みを眺めていた。
 女性の買い物に付き合うのは実は初めてだったのだが、こんなに時間がかかるものだとは思わなかった。ライファにへそくりを届けたついでに見張りとしてついて行くことになったのだが、こうなるとわかっていたらもっとこういうことに適した人物に押し付けていた。たとえばレルティとか。
 そう考えて、迅斗は今日何度目になるのかわからないため息をもらした。
 何より困るのはこの状態だ。
 席に着いてすぐ舟を漕ぎ出したライファに、周りに迷惑がかかるからやめろと言った直後。ならば肩を貸せと言わんばかりにライファはこちらに寄りかかってきた。昨夜の強行軍のこと、彼女がこれから使わねばならないだろうイディアー能力の規模のことを考えれば無理に起こすこともできず、迅斗はただひたすらに早く本部駅へ着くことを願っていた。
 車内放送が次の停車駅を告げる。本部駅まであと十五分はかかるだろう。
 もう一度ため息をついたとき、ふいに左肩が軽くなった。
「……やっと起きたか」
 心底ほっとして呟くが隣からは反応がない。寝るまではうるさいほどしゃべり通しだっただけに、迅斗は不審に思ってライファを覗き込んだ。
「……波紋……」
 茫洋とした表情で向かいの窓ガラスを見つめたまま、ライファはどこか力のない声で呟いた。
「何だって?」
「また、夢を見たの。水の中にいる夢。綺麗で暖かくて優しくて、そこでは私はとても自由だけれど、でも同じくらい一人ぼっちで寂しい。……そういう夢」
 かすれた声は、震えているわけでもないのに泣いているような響きだった。迅斗はかける言葉を見失い、黙ってライファの横顔を見つめる。
「でも、その水の中からさえ引き離されるの」
「……お前はフォンターナの意思とつながっていると聞いた。その夢は恐らくその証拠だろう。だとしたら……」
「だからって!」
 いいかけた言葉は唐突に目を大きく開けてこちらを振り向いたライファに遮られた。
「だからって、フォンターナが私には心を開くだろうとか考えないでね。私が行ったってフォンターナは人間を排斥するよ。私は帰って来れるけど、ほかの人を助ける余裕なんてたぶんないから。だから、行けって言われても嫌だからね」
 ライファは一気にまくし立てると、また正面を向いて視線を落とす。
「……私のイディアーは、そういうことの役には立てられないの。だから私、月を探さなきゃ……こんなとこでこんなことしてる場合じゃないのに……っ」

「……一つ、聞いてもいいか?」
 長い沈黙の後で、迅斗は向かいの客席を睨みつけたまま訊ねた。電車はいつの間にか向かう方角を変えたらしく、床には大きな光のプールが出来ている。
「聞くだけならタダよー。返事がかえって来るとは限らないのが世の常だけど」
 こちらを見上げたライファはわざとらしい笑みを満面に浮かべていた。チェシャ猫の笑い方だな、と、迅斗はため息をつく。
「『月を探す』とは、どういう意味だ?」
 ライファは不意に笑顔を消して、真っ直ぐに迅斗を見上げた。
「私は、ある目的を持っている。それがなんだか、私は忘れてしまって。だからその目的を果たせない。私がどんな目的を持っていたのか教えてくれたのが君のお兄さんなんだ。でもそれだけじゃ足りなくて、私が月がどこにあるのかをきちんと思い出さないとその目的を果たすことは出来なくて。ここじゃ無理だってわかったから。だから君のお兄さんに頼んで、抜け出したんだ、インティリアを」
 言い終わると、ライファは苦く笑って視線を外す。迅斗は呪縛が解けたような気分で肩の力を抜いた。
「それに、いい思い出ないもん、インティリアには。嘘笑いばっか上手くなってさ」
 薄い笑みを貼り付けたまま、力のない声でライファは続ける。
「……月を、見つけたいと思ったんだ。……私と……ターナのために」