第一章 The moon is the sea

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「ぎゃあああぁぁぁああああぁあ!!」
 他力本願寺の本堂で、ライファは腰を抜かしたまま器用にあとずさった。
「すすす……するめ……天理……」
 青い顔のまま、得意顔の猫と狼に交互に指をつきつける。体色からするめと名づけられた猫は、種族の壁を越えて天理とやけに仲が良い。
「外で食いなさい、外でー!」
 二匹はライファの前に並べておいたネズミをくわえると、すごすごと縁側から庭へと出ていった。
「まったくもう……」
 庭に並んで食事を開始した二匹を縁側に出て眺めながら、ライファはため息をつく。
 早朝。ネズミを捕らえたするめと天理に起こされた。起きたら目の前にネズミの死体。しかも二匹。心臓に悪い。ものすごく、悪い。しかも本人達には悪気がないからたちも悪い。
「午後は高橋先生のところに行くから」
 ライファの言葉に天理が右耳をぴくぴくと動かす。天理はどうやら人間の言葉が分かっているらしい。
「ありがと、天理」
 ふっと微笑したあとで、ライファは表情を引き締めた。
「……動き出さなきゃ。……月を、探さないと」

 足がないって不便よね、と、ライファは天理に話しかける。高橋診療所までの道は高低差の多い荒地。所要時間はライファの足で二時間ほどだ。
「ポンコツ君がいれば二十分かからないのに……」
 ぶつぶつ文句を続けていると、前を行く天理が不意に立ち止まって、ライファはつんのめった。
「どうしたの?」
 天理は顔を上げて空気の匂いを嗅ぐと、道をそれてそそり立つ岩の間に入っていく。ライファは首をかしげながらその後を追った。

 岩の間を抜けた先は泉だった。
「……こんな所にオアシスなんてあったっけ」
 泉の広さは直径七メートルほど。周囲には丈の短い草がまばらに繁っている。
「天理?」
 まっすぐ泉の中へ入っていく天理にライファは呼びかけた。天理は泉の中で立ち止まってちらりとこちらを振り向く。促すようにライファから視線を外し、天理は再び歩き始めた。
「ついて来いって?」
 ライファは一瞬迷った末、裾がぬれるのは気にしないことに決め、靴だけ脱いで天理の後を追う。
 しばらく歩いたところで、ライファは不意に泉の中に人影が沈んでいるのに気付いた。慌てて駆け寄り、後ろから羽交い絞めにするようにして水中から引き上げ、陸へと向かう。歩きながら意識がないらしい相手の顔を覗き込んだライファは、一瞬足を止めて息を呑んだ。
「……迅斗……? だよね……?」
 先に陸へ上がって飛沫を飛ばしている天理にライファは尋ねかける。一通り水滴を飛ばし終えた天理は澄ました表情――たぶん――で頷いた。
「……何でここに迅斗がいるの?」
 ライファは半ばは呆然と、半ばは釈然としないままでどうにか迅斗を陸地へ引っ張りあげる。
「……呼吸あり、心音もあり、と……。でもなんで水の中にいたのに生きてるんだろ?」
 胸に耳を当てたりして状態を確認してからライファは尋ねた。首を傾げてみても天理は答えてはくれない。
「どうしよっかなあ……」
 ライファはスカートの水気を絞りながらため息をついた。

「どうしてるかしらねえ、エヴァーグリーン」
 うらぶれたカフェの、舗道にテーブルを並べたテラス席で、アラブ風の衣装に身を包んだフィニスがくすくすと笑った。普段はヴェールで顔まで覆ってしまえるので、変装するには手軽なのだ。その正面で面白くもなさそうにオレンジジュースを飲んでいる花柄のワンピースの少女――白い眼帯と大人びた表情にはいかにも不似合いだ――はティア・カフティアだ。
 二人は今現在エヴァーグリーンに追われているところだった。さすがに派手にやり過ぎたのよね、というのがフィニスの言い分だ。
「ねえティア、行き先に心当たりはあるのかしら?」
 じろじろと好奇の視線を向けてきた男に、お嬢様はものもらいなんです的な笑顔を返したフィニスがそのままの笑顔で身を乗り出す。
 ――無い。あるとすれば奴らの本拠地くらいだな。エヴァーグリーンが来る前に到着して、さっさと逃げるよう指示せねばならん。まだライファがそこに残っていたらだがな――
 ティアはおよそ子供らしくない仕種でオレンジジュースを飲み干した。ストローでもあればまだ子供らしく見えたのに、とフィニスは苦笑する。仕種のせいでまるでウィスキーでも飲んでいるかのように見える。
「ライファちゃんが他力本願寺を引き払っていたら、私たち行くあてがないのね?」
 ――無いな――
 ティアは冷静に答えた。
「悠斗君が見つかると良いんだけど」
 ――そうだな――
 ティアはぼんやりと道行く人々を眺める。
 ――他にすることがなくなったら、仕方ないから奴の捜索でもするか。当てもないからどこにでも行けるし――
「自由っていいわねえ」
 フィニスは目を細めた。

 目を開いた途端に視界に飛び込んできたのは、猫と天理のどアップだった。
「うわっ!」
 思わず飛び起きた迅斗の耳に、「あ、起きたみたい」と言うなんだかのんきな声音が届く。迅斗の顔を覗き込んでいた二匹は、迅斗の横に並んで行儀良く座り込む。
 迅斗は上半身だけ起こしたまま、忙しく周囲を見回した。
 ところどころに穴のあいた広い板の間。壁の三面は木戸になっていて、今は大きく開け放たれている。その向こうは柵の無い狭い木製のテラスになっていて、さらに向こうには木々が青々と茂っていた。壁の残りの一面には東洋風の坐像とテレビが据え付けられている。光線の具合からするとそろそろ夕暮れに差しかかろうかと言う頃だ。
 テレビの前にはライファと迅斗の知らない壮年の白衣を着た男性が座り込んでお茶を飲んでいる。
「ここは……どこだ?」
 迅斗はとりあえずライファに向かって尋ねた。
「ああ、迅斗は来たの初めてだっけ。ここ、他力本願寺だよ。エヴァーグリーンに連れて行かれる前に私が住んでたとこ」
 ライファは床に湯飲みを置くと、四足で迅斗のそばまでやって来る。
「気分はどう? お腹すいてない?」
 ライファは迅斗の顔を覗き込みながら尋ねた。
「気分? いや……特に変わったところはないが、それよりどうして」
「待って」
 ライファは迅斗の言葉を遮って真面目な表情を作る。
「どうして、は、保留にしておいて」
 呆然と見上げる迅斗に、ライファはにやりと笑って見せた。
「私もしばらく保留にしといてあげるからさ。……いろいろ」
 何となくいたたまれないような気分になって、迅斗はライファから視線を逸らした。目の端でさっきの猫が天理のしっぽにじゃれついている。
「で、お腹すいてるの?」
「……そう……だな……。少し……」
「よし、それじゃあライファさんの手料理を食べさせてあげよう。上手くはないけど、タスクよりは何ぼかましよ?」
 どうしてライファは笑っているのだろう。
 迅斗は考えた。

 どうして、ライファは笑っているのだろう?