第五章 First embrace

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 夢。
 そう、夢だ。
 ――私じゃない、誰かの夢。
 ライファはゆっくりと瞳を開く。今この瞬間にこの世に生まれ出たような、不思議な心地がする。水が全身を取り巻いている。無限に広がっているような、果てのない水の奥に、巨大な生き物たちや無数の魚の群れの気配がさざめいている。気持ちの良い浮遊感に包まれながら、ライファは両腕を広げる。冷たく滑らかな水の感触や、じわりと皮膚に滲んでくるような浸透圧を全身で感じたかった。
 夢の中で、何度もここへ来たことがある。でも今日は何かが違う。決して不快ではない違和感の正体を探ろうと、ライファは何度も瞬きした。
 今まで見た夢では、ライファはいつも海だった。広大な水の星の隅々まで意識を伸ばすことができた。でも、今日の夢は違う。この体は小さくて一つきり。
 ――どうしてなんだろう?
 ふと思いついて自分の体を見下ろしてみる。
(あれ?)
 腹からつま先にかけてを検分し終えて、今度は明るい方に向かって両手をかざした。
「あは」
 笑うように息を吐き出すと、空気が泡になって立ち上っていく。
「なんだ、ここにいたんだ……」
 光にかざした手が、ふっと二つにぶれて分かれた。見慣れた細い自分の手と、筋張った男の人の、けれどやっぱり見慣れた手。
 ――アレス――
 自由に動かせる細い手で、もう片方の手を握る。
 ――帰っておいでよ、ターナと一緒に――
 水が揺れる。何かが心の中に流れ込もうとしている。でも、今のライファにはそれを受け止めている時間がない。
 ――目が、覚めそう。
 アレスは何か答えてくれようとしたのだろうか。
 わからないまま、ライファの意識は吸い込まれるように地球へ落ちていった。

 ――現在人類が生存可能な地域で海となるのは、第二、第三行政区画及びインティリアとその地下。そこに海が流れ込む。歴史的な規模のイディアー能力だ。当然そのままそこにとどまっていれば水が満ちてくることになる。そこに住む人々を避難させること、これは我々エヴァーグリーンの組織力があって初めてなせる大切な任務だ。どうか誇りを持って任務を遂行してほしい――
 ティアのテレパシー能力を増幅した放送が、頭の中に響いている。
 エヴァーグリーン本部第三センタービルの裏口から侵入した迅斗たちは、すでに第一センタービルの二階に到達していた。無機質な白い廊下には、迅斗たち以外に人の姿も気配もない。
 今一行が目指しているのは、二階中央の大広間だ。地下一階の極秘区画へ降りるためには、中央の広間からセキュリティチェックを通過して一階へ下り、そこからエレベーターを使わなくてはならない。
「ここから先は中央司令室、つまりエヴァーグリーンの『頭脳』の許可がいる」
 広間へ続く扉の前で、迅斗が声を潜めた。
「地下へ降りるためには必ずここを通る。もしも何か罠があるとしたらここだ」
「戦闘になるならお前らは邪魔だな」
 タスクにじろりと一瞥されて、桔梗は申し訳なさそうに俯き、レルティはそれと対照的に不満げに頬を膨らませた。
「何よ、私の能力知らないくせに」
「戦えるようには見えねえよ」
「何言ってんの! 私は、エクスティリアからスカウトされてエヴァーグリーンに入った立派な戦力なの。金やコネで入ったカイラスや桔梗なんかと一緒にしないでくれる!?」
 一応声を潜めてはいるが、レルティの語気は荒い。
「……仲間に対して容赦ねえな。どういうチームワークなんだよ」
「まったく、どうしていつもこうなるんだろうな……?」
「お前がリーダーじゃなかったのか」
 頭を抱える迅斗を半眼で見やってから、タスクは改めてレルティに向き直った。
「で? お前は何ができるんだ?」
「私の能力は反《アンチ》イディアー。イディアー能力の無効化よ」
 胸を張るレルティに、タスクはふうんと感心したような息を吐く。
「つまり待ち構えてるのがイディアー能力者なら、お前がその力を無効化してる間に叩けば良いってことだな。便利じゃねえか」
「へっ?」
 ののしり文句を予想していたレルティは、思いの外好意的な評価をされて毒気を抜かれたような顔をした。
「な、何? 素直に認められるとそれはそれで怖いんだけど」
「じゃ、行くか」
 引きつった表情で身体を引くレルティから扉の向こうへ意識を移して、タスクは戦闘態勢に移行する。つられたように迅斗と天理のまとう気配も、ぴりぴりとした緊張感に包まれた。
「あんたは私の後ろにいなさいよ」
 レルティがかばうように桔梗の前に立ち、桔梗は厳しい表情でその言葉に頷く。
「迅斗、結界張れ。扉は俺がぶっ壊す」
 偉そうに言い放ったタスクの手には、高熱の炎が生まれつつあった。

 エヴァーグリーンの本部を基底から揺るがすような爆音と共に、広間と廊下を隔てていた扉が吹き飛ぶ。もうもうと舞い上がる粉塵に覆い尽くされた視界は、すぐに換気システムの働きで晴れ始めた。クリアになった視界に現れるのは、各区画からの連絡通路が集まった、運動場一つくらいなら余裕で飲み込めそうなほど広大な空間だ。黒いつやのない金属で覆われた壁には無数の配管やコードが走り、未だ粉塵に煙って見えない高い天井の向こうへ消えている。
「てめぇか……」
 広間の中央で待ち構えていた人物に、タスクは鋭い視線と言葉を投げた。
 粉塵が晴れるにつれて、シルエットだけだったその姿がはっきりと見えてくる。爆風に翻る白衣の裾、表情を隠す丸い眼鏡。
「ノエル! ここを通せ!」
「今さら言葉だけでどうにかしようとでも?」
 焦りを含んだ迅斗の言葉に、冷え切った声でその男は返す。
「ここを通すわけには行きません。まだフェルゼン様が目的を果たしてくれていない」
 ノエルが右手を上げる。それに呼応するように、空中にいくつもの光の球が現れる。ノエルを取り巻くように現れたそれは、収縮してメスの形に変わっていく。
「な、何アレ!?」
「ベルトラム・ハルデリスの能力? なぜノエルが……!?」
 レルティと迅斗が驚きの声を上げる。
「そんな場合か! 来るぞ!」
 タスクは怒鳴りながら炎の球を生みだし、飛んできたメスにぶつける。炎と刃はぶつかり合い、空中に無数の炎の花を咲かせる。轟音が響く頃には、タスクの姿はもうノエルの目の前に迫っている。
「タスク!」
 切羽詰まった迅斗の声。それよりも先に本能が脊髄を駆け抜けた。タスクの身体はノエルに届く一瞬前に獣じみた動きで後方に飛び、空中で次々に生み出されたメスが人間の目で追うことは不可能なスピードで、一瞬前までタスクが占めていた空間に突き刺さる。その空隙を迅斗の放った雷撃が駆ける。雷撃の筋道が逸れるようメスで誘導しながら、ノエルは二人から距離を取ろうとしている。タスクは転がりながら驚異的な動体視力でそれを見定め、一気に走った。
 雷撃は間断なくノエルに迫り、メスが途切れる隙間を天理も狙っている。洗練された迅斗と天理の動きに無駄はない。隙を見せれば一瞬で黒こげになると、あるいは喉笛に食いつかれると、ノエルにはわかっているはずだ。だからノエルの目線の先にタスクはいない。
 白衣の裾が迫る。右手に生み出した炎が燃え上がる瞬間を待ち構えている。感じる熱は、右肩の――
「ぐっ!?」
 足からがくりと力が抜け、タスクの全身は全力疾走の勢いのまま床に叩き付けられた。ホワイトアウトしかけた思考に女の悲鳴が突き刺さり、タスクは辛うじて意識を保ちながら顔を上げる。無意識に右肩に手を伸ばす。焼け付くような感覚のそこに触れると、ぬめった感触に指が滑った。
「ノエル……!」
 白衣の向こうに怒り狂った迅斗の顔が見える。
「わかっているんだろう!? こんなことをして何になる!?」
「わかっていますよ」
 ノエルの周囲に浮かび上がる幾本ものメス。次々に出現したそれが、凶悪な切れ味を示してぎらりと光る。あれが背後から肩に突き刺さってきたのだと気付いて、タスクは舌打ちした。油断はなかった。ノエルの実力が己の勘を上回っていたというだけのことだ。
「これは単なる復讐。下らない、身勝手な感情だ。だからあなた方は遠慮なく僕を倒して先に進めば良い。それだけのことです」
 タスクはもはや戦力外と踏んだのだろう。ノエルの意識も無数のメスの切っ先も、全てが迅斗へ向かっている。こうなれば天理も迅斗を守るように動くしかない。
「遠慮なんて……誰がするか……!」
 迅斗のまとう気配が、殺気と共に一段と強まる。
「待って……」
 震える声は、レルティの後ろに隠れていた桔梗から発せられた。さっきの悲鳴はこいつのか、と、タスクは霞がかかったような意識で場違いなことを考えた。
「ちょ、ちょっと」
 何かタイミングを計るようにじっとノエルを見つめていたレルティが、ぎょっとして振り向く。
「待ってください! ノエルさん!」
「待つのはあんた!」
 火花さえ散りそうな二人の間に進み出ようとする桔梗を、レルティが慌てて腕をつかんで引き留める。
「何考えてるのよ! おとなしくしててって言ったでしょ!?」
「わかってます。でも……!」
 レルティに抑えられながらも、桔梗はなおも前に進もうともがく。
「ノエルさん! 教えてください! フェルゼンの目的を貴方は知っているはず! なのに、なのにどうして……!?」
「言いましたよ、桔梗さん。これは復讐。下らない、身勝手な感情だ、と」
 酷薄な笑みを湛えるノエルの横顔に、タスクは奇妙な違和感を覚える。笑っているのに、そう見えない。まるで高橋先生に注射をされて、泣くのを必死でこらえている子どものような表情だ、と、そこまで考えたところで自分の思考を笑い飛ばした。ライファを攫った裏切り者と注射に泣き出す子どもを同一視するなんて、きっと傷のせいで思考回路もおかしくなってしまっているのに違いない。
「僕はね、フォンターナが消えてなくなればそれで良いんです。僕から妹を――たった一人の家族を奪った存在が消えてくれるなら、悪魔に魂を売り渡したって構わない。ずっとそうだった。エヴァーグリーンに入ったときから、ずっとそうだったんです」
「嘘よ」
 桔梗のその言葉は、静かに発せられたにも関わらず広間の隅々にまで響き渡った。レルティも思わず力を緩めてしまったらしく、桔梗はその手を振り払ってノエルの前へと進み出る。
「後悔しているんでしょう? 貴方は優しい人だもの」
 引き留めようとしたレルティが、険しい表情で動きを止めた。
「だって貴方は、幸せの重さを知っているわ。それを壊すのがどんなに残酷なことか。一度壊れたそれを、もう一度掴み取ることがどれほど難しいか。だから……だからそんなことはしないで。もう、こんなことは終わりにして。意味なんて無いんだって、貴方にとってだってそうなんだって、むしろ貴方がようやく掴んだ幸せだって壊してしまうんだって、貴方はわかっているはずだわ」
 泣きそうな瞳で、それでも慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら進み出る桔梗に、ノエルが一歩後退る。桔梗を恐れているような仕草と表情だ。戦闘能力のない一般人の何が怖いのかはさっぱり理解できないが、これが好機だということはわかる。ノエルに隙が生まれるタイミングを計ろうと密かに身がまえた瞬間、ちりりと殺気のような気配を感じて、タスクは視線だけをそちらへ向けた。そこにいたのはレルティだった。ほとんど憎々しげな表情で桔梗の背中を睨み付けている。
 何この茶番、と、その唇が呟いた。