第五章 First embrace

 5-2

 唇が呟き終わるのと同時に、レルティの身体から同心円状に力の「場」が広がった。その「場」に飲み込まれ、迅斗が構えていた雷撃も天理が纏っていた冷気も消える。ノエルを守るように浮かび上がっていたメスも力を失ったように床へ落ち、硬質な音を響かせる。タスクの目の前に落ちてきた一本が澄んだ音を立てて弾むのが、スローモーションのように見えた。
「な……っ!?」
 ノエルの動揺、一瞬の隙。考えるより先に身体が動いた。目の前のメスを拾い上げ、一挙動で投げつける。一直線に身体に向かってくるそれを、ノエルの驚愕に見開かれた目が見つめる。その軌道を遮るように、桔梗の細い体が両腕を広げて飛び込んでくる。長い紫色の髪が描くその軌跡すらも、やけにゆっくりと目に焼き付いた。
「桔梗……!」
 切羽詰まった叫び声は迅斗のものだ。けれど刃は止まることなく、桔梗の肩に吸い込まれていく。悲鳴すら上げることなく、ゆっくりとその身体が崩れ落ちていくのを、何一つ言葉を発することも出来ずに全員が見つめていた。
「……どうして……」
 ふらりと桔梗に歩み寄りながら、ノエルがかすれた声で呆然と呟く。がくりと膝をつき、震える手で桔梗を抱き上げる。
「どうして……」
 力なくうなだれるノエルに、誰も声をかけることが出来ない。悲痛と困惑に満ちた沈黙の中で、最初に我に返ったのはレルティだった。
「とにかく、止血するから。どいて」
 レルティはいらついた様子でノエルを押しのけ、桔梗の治療を始める。ノエルは呆然と場所を譲り、床に座り込んだ。ただ立ち尽くしていた迅斗が、それを見てはっと我に返ったように動き出す。
「ノエル」
 迅斗はノエルに歩み寄り、その肩にそっと右手を乗せた。
「桔梗は……ライファを助けたらすぐに高橋先生の所に送る。それまでレルティと一緒に付いてやってくれないか」
 ノエルはやはり呆然としたまま、焦点の合わない瞳で迅斗を見る。
「僕……は。こんな……つもりじゃ」
「じゃあどんなつもりだったのよ」
 皆に背を向けたままてきぱきと止血しながら、レルティが苛々とした口調で言いつのった。
「裏切って、ライファちゃん連れてって、敵対して。怪我させる気くらいあったんでしょ?」
 切り捨てるような鋭い言葉が、その場の空気を強く切り裂く。
「なのにそんなつもりじゃないってどういう意味?」
 怒りで研ぎ澄まされたその刃を引っ込めるつもりは、レルティにはないようだった。
「あんたの言ってること、一つも意味わかんないのよ」
 全てを拒絶するようなその背中に全員が黙り込む。
 沈黙を破ったのはタスクだった。
「とにかく、ライファが心配だ。後は任せて先に進むぞ」
「っ、お前だって怪我してるだろう」
 タスクの右肩の傷に気付いた迅斗が息を呑む。
「止血だけ頼むわ。時間が惜しい」
「あ、ああ」
 迅斗はレルティが持ってきていた救急箱から包帯を取り出し、タスクの肩に巻いた。とりあえず血が止まったのを見て、タスクは頷く。
「じゃ、行くか」
「レルティ、桔梗が目を覚ましたら一足先に脱出してくれ」
「……了解」
 迅斗の指示に、レルティは振り向きもせずに低い声で答えた。
「ノエル、セキュリティチェックを抜けたい。カードを貸してくれ」
 迅斗に再び肩を叩かれたノエルは、魂が抜けたような表情でのろのろと白衣の胸元からカードを取り出す。受け取った迅斗は先に走り出したタスクを追い、その後について天理も駆けだした。

「とりあえず、応急手当は終わったわよ」
 しばらく後で手を止めたレルティが、振り向くことなくそう言った。
「致命傷じゃないから。たぶん、命に別状はないと思う」
 安心させるためではなく、ただ淡々と報告するような口調に、それでもノエルは安堵を感じてしまう。ふらふらと歩み寄ったノエルは、桔梗が安らかな寝息を立てているのを確認して、思わずその場にしゃがみこんだ。血の気のない顔を見つめながら、その手を取る。
「桔梗……君は……そうやって……全てを、許してしまえるのか……?」
 聞いちゃいられないとでも言いたげに、レルティが立ち上がってその場を離れるのにも、ノエルは気づかない。
「そんな……甘い考え。……僕はずいぶん下らない人を好きになったみたいだ……」
 泣き出しそうな声で呟きながら、彼は桔梗の手をさらに強く握りしめた。
「……嘘だ……下らないのは……僕の方だ……。……すまない……桔梗」
 その様子を横目で見ながら、レルティは大きくため息をつく。
「――偽善もあそこまで行けばあっぱれだとは思うわよ。でもむかつく。やっぱあの子嫌い」
 誰に向けるでもない苛立ちに満ちた呟きは、空しく広間の高い天井吸い込まれて行く。

 セキュリティチェックを抜け、極秘区画へ突入する。無数の配線が走る通路を抜け、目指す先はフォンターナへのゲートがある広間だ。迅斗にとっては、兄――アレスと戦い、その命を奪ってしまったかもしれない、因縁の場所だった。
「妙だな」
 駆け抜けながら、タスクが顔をしかめる。
「ああ。誰もいない」
 フェルゼンに忠誠を誓う黒服たちの襲撃くらいは覚悟していたのに、人の気配すらもない。
「気をつけろ。罠かもしれない」
「どうせ突入するする以外ねえんだろ。だったら邪魔がないだけマシだ」
 面倒臭そうなタスクの答えに、改めて気が合わないことを実感しながら、迅斗は走った。

 結局誰にも会わないまま、広大な地下大空洞へ辿り着いてしまった。フォンターナへ続くゲート発生装置を囲む湖の前で、フェルゼンが二人を待ち構えるように立っていた。湖の上に浮かび上がるように設置された透明な円柱の中に、ライファが閉じ込められている。目を閉じてはいるが、生命維持装置に繋がれているから生きてはいるのだろう。そのことにほっとしながら、迅斗は素早く周囲を見回す。
 広場をぐるりと囲むのは、冷凍睡眠用の人体収容カプセルだ。その全てが機能を停止していることに気づいて、迅斗は愕然とした。無理矢理機能を停止させられたカプセルの中の人々は、生きてはいないはずだ。フォンターナへの移住が約束されていたはずの、エヴァーグリーンの幹部たちや、その家族。
 呆然と視線を巡らせてフェルゼンを見た迅斗は、その背後に影のように控えている男の姿に目を見開いた。ゴートだ。
「父さん……!? どうして……」
「裏切り者と話すことなどない」
 冷たく言い放ちながら、ゴートは視線を逸らす。
「裏切り者……!? この様子を見て誰が裏切り者なのかわからないのですか!?」
「君たちに話したところでどうにもなるまい。理解出来るとは思えんよ」
 口をつぐんでしまったゴートに代わって、フェルゼンが冷笑混じりに答えた。
「一体、何が目的なのですか」
 先ほどから黙っているタスクが隙を伺っているのを承知で、迅斗は無意味だとわかっている会話を続ける。フェルゼンが言ったとおりだ。理解出来るはずなどない。
「では、無駄を承知で話すとしようか」
 肩をそびやかしたフェルゼンの口調はあくまでも静かなものだった。けれどそこに、迅斗は言いようのない狂気を感じる。
「私は滅びていく様が好きなんだよ。住む者のない廃城、古代の遺跡……滅亡は美しい。世界の滅亡など、特にすばらしいとは思わんかね。君たちも見たのだろう? ウィーゼ開発地区の地下にある、あの滅びた都市を。美しいとは思わなかったかね?」
 少しずつ熱を帯びて行く調子が、フェルゼンの陶酔を伝えてくる。
「貴方だって、その世界の一員であるはずだ!」
 張り上げた声を届けたいのは、フェルゼンにというよりもその背後に控える父親に向けてだった。
「いや、違うな。君は分かっていない。だからこその移住計画なのだよ。私はあの空の高みから、この星が乾いて滅亡していく様を眺めていたいのだ」
「……馬鹿の妄想に付き合ってられるかよ」
 タスクがぼそりと呟く。それを聞きとがめたフェルゼンが、憐れむような笑みを浮かべた。
「だから言っただろう。君たちに理解してもらいたいなどとは思っていないと。理解出来るはずもない。なぜならば、君たちはその高みに立つ者ではなく、地上で滅びを迎える側だからだ」
 一歩こちらへ踏み出したフェルゼンの手に、青白い光が集まって剣の形に変わる。
「加害者が被害者に向かって自らの行動理由を説く……ふむ。やってはみたが、やはり滑稽だな」
 最後まで、フェルゼンに隙は見つからなかった。圧倒されそうな闘気に歯を食いしばりながら、迅斗も自身のイディアー能力を高めていく。
「話は終わりだ。行くぞ」
 言葉と同時に、フェルゼンの姿が消えた。

 勘だけでその場を飛び退いた迅斗とタスクの間に、鋭い斬撃が振り下ろされる。横から仕掛けた天理には、空中に突如出現した刃が襲いかかり、回避を余儀なくさせる。わかっていたことだが、フェルゼンの実力は迅斗が太刀打ちできるものではない。レルティの能力が効かないことも今までの訓練でわかっている。天理と組んで戦闘訓練に臨んだこともあったが、その時も軽くいなされた。
 そして今、本気の彼を目の前にして希望があるとすれば、それはフェルゼンにとって未知数であるはずのタスクの能力だけだ。怪我をしている状態では肉弾戦は無理だろうが、タスクのイディアー能力は間違いなくフェルゼンにとっても脅威になる。
 だからこそ、迅斗はあえて前に出た。間断なく繰り出す雷撃を、フェルゼンは空中に浮かんだ青白い刃を自由に操って叩き落として行く。タスクが動かないのは、右肩の怪我のため、フェルゼンの実力を測るためと、そして恐らくはその背後に控えたまま動かないゴートを警戒しているからだ。
 フェルゼンは遊んでいるようだった。猫が獲物をいたぶるように。懐に飛び込まれた迅斗は手に雷を集めて刃を作る。どうにか受け止めた青い刃の重さに、迅斗は顔を歪めた。フェルゼンと切り結ぶたびに、圧倒的な力に刃が霧散しそうになる。
「やはりお前も私には勝てないのだな、迅斗」
 刃の形を保つだけで精一杯の迅斗に、フェルゼンは猫なで声で囁いた。
「くっ……!」
 集中力をかき集め、全ての力を刃に集める。
「無駄だ。その程度では」
 タスクが動いたのはそのときだった。フェルゼンが切っ先に集中したその一瞬を狙って、炎撃を繰り出す。迅斗をも巻き込みかねない攻撃だったけれど、同時に展開された天理のバリアが迅斗を熱から守る。炎に包まれたフェルゼンに、迅斗はとどめとばかりに雷撃を叩き込んだ。
「ククク……」
 激しい炎と粉塵の向こうから、楽しげな笑い声が聞こえる。
「そうだ、それでいい」
 声と共に、炎の幕が吹き払われた。
「だが、まだ足りない。もっと、もっとだ」
 骨も残さず焼き尽くされたはずのフェルゼンには、傷一つついてはいなかった。
「……めんどくせえ野郎だな」
 タスクがこれ見よがしに舌打ちする。
「もっと私を楽しませてみせろ!」
 フェルゼンのイディアー能力が、ますます高まっていくのを感じた。彼が持つ刃と同じ青白い光が、今やその全身を包み込んでいる。