第五章 First embrace

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 ――足りない。
 絶望的な気分でそう思った。どうあがいても、この圧倒的なパワーに対抗できるとは思えない。それでも。
「負けるわけにはいかない!」
 ライファを取り戻す。そのためには、無理でもなんでもフェルゼンを倒さなければならない。
「いいぞ、来い!」
 挑発されるままに踏み込んだ。打ち合った刃が震える。フェルゼンの唇が楽しそうに釣り上がる。
 受け止めきれない。――霧散する。
 思って奥歯を噛みしめた瞬間、不意に手応えが増した。金色の雷撃をまとっていた刃が、赤く揺らめく炎に包まれている。その芯になっているのは、天理の作り出した氷の刃だ。
「ぐっ!?」
 フェルゼンの表情が歪んだ。初めて、迅斗の刃ではなくフェルゼンの刃が揺らぐ。
「押し切れ!」
 タスクが叫んだ。他人のイディアー能力に自らの能力を上乗せするなど聞いたこともないが、タスクは本能的にやり方を編み出したのだろう。
 力を込める。フェルゼンの刃が震え、力を失う。
 刃が霧散する直前、フェルゼンは確かに微笑したようだった。

 目の前が真っ白に染まって、何が起こったのか一瞬わからなかった。
「貴様に何が出来ると言うのだ」
 静かな声が、ゆっくりと迅斗の意識を現実に連れ戻す。
「欠陥品の帰還システムが海を取り戻すなど土台無理な話だ。彼女は海と共に地球に帰還することなど望んでいない」
 体が動かない。全身を貫く痛みに、呼吸さえままならなかった。
「いや、そもそもシステムの設計者はこの星から海を奪い去ることが目的だったのだろう。フォンターナ形成と共に我々は海を失ってしまったのだよ。永遠に、設計者の意図した通りにな」
 薄目を開けて、冷たくこちらを見下ろすフェルゼンを見上げる。目の前に突きつけられているのは青白く光る刃だ。あの一瞬、フェルゼンはわざと刃を消し、左腕を斬らせてその代わりに迅斗の体にエネルギー塊を叩き込んだ。タスクと天理も青白い刃に囲まれて動けずにいる。片腕を焼き切られてなお、フェルゼンの表情には勝者の余裕が滲んでいた。
「どちらにしろ、世界は滅びる。なのになぜ、その美しさを愛でてはならないと言うのかね?」
 滑稽な質問だ。迅斗は思わず失笑した。
「この期に及んで……俺に理解を求めるのですか?」
「……そうだったな」
 フェルゼンは口の端を微かに持ち上げ、皮肉げに笑う。
「では、死ね」
 刃を突き刺そうと構えたフェルゼンの胸を。
 後ろから、光の刃が。
 貫いた。
 ぐらりと傾いたフェルゼンの向こうには、いつも通りの厳格な表情を保ったゴートの姿。
「父、さ……」
「……ゴート……! 貴様ああぁあ……っ!」
 迅斗を貫くはずだった刃が、返す刀でゴートの胸を切り裂く。それと同時にフェルゼンの刃は力を失い、光の粒子になって砕け散った。
「どうして……」
 呆然と呟く迅斗に、ゴートは感情の抜け落ちた目を向ける。フェルゼンの体がゆっくりと崩れ落ちていく様が、まるで現実感のない光景に見えた。
「貴様らはこの乾いた星を抱えて生きていけば良い。……私は……もう、たくさんだ……」
 どさりと倒れ伏す音を合図にしたように、ゴートも諦め切った表情で目を閉じる。
「下らない……どちらにしろあの星は……私たちを受け入れはしないのに……」
 ぐらりと傾いたその体に、迅斗は必死で手を伸ばした。
「……父さん……父さん……っ!」
 無駄だ、ということは、頭ではわかっていた。
「迅斗」
 タスクの呼び声に答えることも忘れて、迅斗はゴートの体にすがりつく。その様子を見たタスクは小さく舌打ちして、ライファが閉じ込められている円柱に歩み寄った。
「どうやって開けるんだよ、これ」
 ――私が開けよう――
 静かに頭の中に響いた声にも、迅斗はすぐには反応できない。
 どうして。なぜ。
 言葉にならない疑問だけが頭の中で渦巻いている。それでも声の主――ティアが何か精神を落ち着かせるイディアー能力を使ったのか、幾分か冷静さは戻ってきていた。
 いっそ混乱したままでいたかったけれど、今はそうも言っていられない。ゆっくり振り向くと、作戦通りテレパシーによる広域放送を終えたティアが広間の入口まで来ていた。
 ――少し離れていろ――
 こちらへ歩み寄りながら、ティアはちらりと痛ましそうな視線をフェルゼンとゴートと、そして迅斗へ向ける。しかし、それはほんの一瞬のことだった。
 ティアは円柱の前にたどり着くと、迷わず手を伸ばしてガラスの表面に触れる。
 ――ライファ――
 静かに、けれど微かな必死さを込めて呼びかける声が、迅斗にも聞こえた。
 ――聞こえるか――
 その呼びかけに応えるように、ライファがぼんやりと目を開ける。
 ――今解放してやる。身構えておけ――
 ライファは何度か目を瞬かせてから、微かに頷いた。ティアはその様子を確認してから、円柱の根元にあるパネルを操作する。
 気持ちを切り替えなければ。戦闘の記憶を振り払うように、迅斗はゴートの身体を床に横たわらせて立ち上がった。
 ゆっくりと、ガラスの前面が開いていく。浮力の支えを失ったライファの体がぐらりと傾くのを見て、迅斗は思わず手を伸ばした。ほどけるように解除されていく生命維持装置のコードから解放されたライファが、腕の中に飛び込んでくる。
 生きている。ゴートと違うその感触にほんの少しだけほっとした。
 ――急ぐぞ。フェルゼンの死をスイッチにゲートもエヴァーグリーン本部も崩壊するようになっている。そうなる前に帰還プログラムを起動させる必要がある――
 ティアは少し焦った調子で言うと、ゲート発生装置の周りを取り囲む湖に歩み寄った。それを追いかけるようにライファも少しふらふらとした歩調で湖に向かう。
「大丈夫なのかよ」
 その背中に向かって、タスクが乱暴な口調で、しかし心配そうに声をかけた。
「だいじょぶ。一応話は聞いてもらえたし」
「話?」
「そう、エヴァーグリーンの頭脳に……あとは……」
 湖に手を浸したティアの隣にしゃがみ込みながら、ライファの背中はひどく緊張しているようだった。
「向こうが応えてくれるかどうか、かな」
「向こうって、フォンターナか?」
 先ほどのフェルゼンの言葉を聞いていたはずなのに、タスクの言葉には不安げな響きはない。
「そう」
 答えるライファにも、緊張はあっても不安はない様子だ。
 ――ライファ――
 二人の会話を、ティアの苦しげな声が遮った。
 ――……つながった――
 その肩をライファが支えるように抱く。
「大丈夫、ティアちゃんはここにいるよ、ちゃんと。消えたりしないから、大丈夫」
 無言で頷くティアにはいつものような余裕は見当たらず、年齢相応の少女のように見えた。ティアの手が触れたところから、湖全体に光が広がっていく。
「大丈夫」
 勇気づけるように、ライファは肩を抱く手に力を込める。
「向こうには」
 続く言葉に、迅斗は目を見開いた。
 ――アレスも、いるから――

 広がる水。上も下もない中で、立っているような姿勢を保つことは難しい。それどころか、自分の輪郭さえわからなくなりそうだ。けれど、この水に全てをゆだねてしまうわけにはいかなかった。
「俺は、帰りたいんだ」
 アレスは広がる水全てに向かって言う。
 ――きずつけられたのに?――
 水が応える。
「ああ。それでも」
 ――アレスは、つよいのね。わたしはこわい。ひとはわたしをにくんでいる……――
 ゆらゆらと水が揺れた。
「強さなんて、俺にはよくわからないよ。ただ帰りたいんだ。ライファが待ってる……たぶん、ティアも、タスクも」
 ――さびしく、なるな。アレスが、いなくなってしまったら――
 揺らぐ声の調子に、女の子を泣かせるなんて自分もまだまだだな、と、アレスは小さく苦笑する。
「だから、ターナ」
 ――……淋しい……――
 ――だから――
 アレスはふと視線を上げる。ライファの声。確かに聞こえた。聞き取ろうと耳をすませる。
 ――だから、帰ろう――
 ライファが言う。アレスは微笑して頷いた。
「帰ろう、ターナ」

 アレスの気配を感じながら、ライファは続ける。
「帰ろう、フォンターナ。私たちと」
 肩にアレスの手が触れた。確かに、その感触がした。その感覚に励まされるように、ライファはティアのテレパシーに自分の声を乗せる。
「一緒に」
 ――一緒に――
 アレスと自分の声が、同時に聞こえた。

 瞬間、世界が弾けた。
 膨大な質量の水の中で、ライファはすがり付いてくるティアの存在を強く感じた。身体は自由に動かなかったけれど怖くなかった。何より寂しくないことが嬉しかった。ティアの存在を、アレスの存在を、そしてターナの存在を近くに感じる。ともすれば皆が自分の中にいるかのように、近く。
 ――アレス――
 ティアが呟く。遠く、呼びかけに答えるように水が揺れる。
 ライファは笑って、力の全てを解放した。